えば良いのか、無学だった従来の裁判官たちには分からなかったのです。そのような状況で活躍したのが学識法曹たちでした。16、17世紀(近世)というのは、学識法曹たちが社会に進出していく時代でもあります。そんな彼らの活躍の場のひとつが「魔女裁判」でした。 「魔女狩り」と呼ばれる出来事をご存知でしょうか。16、17世紀に、ヨーロッパ全体で4万人を超える人々(2割程度は男性)が「魔女」として処刑されました。ヨーロッパの魔女狩りの特殊性は、それが「裁判」という形を取ったことにあります。当時魔女であることは「犯罪」であり、魔女狩りは裁判制度を活用しながら遂行されたのです。魔女裁判というと「不正な裁判」という印象は強いようですが、実際には当時の訴訟法や、あるいは刑事法学の基準がきちんと意識されていました(拷問の利用も、合法な証拠獲得法の一つでした)。「ローマ法」の影響を受けていた当時の裁判を正しく遂行するためには、高い法学の素養が必要とされました。学識法曹たちは、魔女裁判という新しい社会問題に直面し、その中で、魔女裁判に関する法学的論文や意見書を残したのでした。 例えば、当時の学説の中に、「特別な犯罪に対しては、特別なやり方で対応すべきだ」という考え(例外犯罪論)があります。魔女は非常に危険で重大な犯罪だと見なされていたので、この理論に基づいて、拷問は他の犯罪以上に過酷になりました。ただし、特別扱いそのものは認めても、「どこまで特別扱いできるか」という点で論者毎に違いがありました。例えば、「未成年でも証人になり得る」という意見は同じでも、ある人は「14歳以上」、別の人は「9歳以上」という具合です。彼らは自分が学んだ理論を用いて、魔女裁判をどう扱うべきかを検討し、それに基づいて行動をしていきました。その結果、一部の学識法曹たちは魔女裁判の大規模化に加担してしまうのですが、それもまた近世に彼らが残した足跡のひとつと言えます。 法学方面からも付言しておきましょう。その後、近代的な刑事法では宗教的な犯罪が非犯罪化したり、刑罰の目的の変化に伴って過酷な刑や拷問が廃止されたり、例外犯罪論が否定されたりしました。このような主張をしたある著名な刑事法学者は、同じ文章の中で魔女裁判を痛烈に批判しています。やや大げさな物言いですが、魔女裁判の経験と批判が、近代的刑事法の根底となったと言えないでしょうか。近代刑事法が生まれた背景を知ることは、刑事法学の根本理念を理解することにつながるでしょう。 法制史学というのは、歴史学と法学の二つの側面を持ちます(実はこれらは少し相性が良くないのですが)。法制史学は、それを覗いた人に、一般的な歴史学とも法学とも少し異なる特別な景色を見せてくれます。詳しくはこちらHiroshima Shudo UniversityIntroduction Research11魔女裁判を遂行する学識法曹たち法制史から見える景色法制史学は、一般的な歴史学とも法学とも少し異なる特別な景色を見せてくれます。
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